マーケティングテクノロジーの情報を発信しているMarTechというカンファレンスがあります。定期的に無料のウェビナーも配信しており、マーケティングテクノロジー界隈の動向をキャッチアップするのに、うってつけの情報源です。筆者も積極的に活用しています。2020年6月に配信されたウェビナーでは、「Identity Marketing(アイデンティティーマーケティング)」という考え方が紹介されました。米国の企業、SheerID(アイデンティティーマーケティングを用いたプロモーションのプラットフォームを提供)のチーフマーケティングオフィサー、Sai Koppala氏はウェビナーで「特定のアイデンティティー属性へのマーケティングが、パーソナライゼーション成功のカギになる」と話しています。アイデンティティーマーケティングとは一体何なのか。本稿でひも解いてみたいと思います。

アイデンティティーとは

そもそも、アイデンディティーとは何なのでしょうか。Identityの和約を調べてみると、「同一性」「一致」という意味のほか、「独自性」「主体性」「帰属意識」という意味があるようです。私たちがこの言葉を用いる場合は「自分らしさ」「個性」というニュアンスを含むケースが多いので、後者の意味で認識されがちです。

アイデンティティーマーケティングを考える場合は、後者の意味ももちろん含まれますが、前者の意味も頭に入れた上で考えると理解がしやすいでしょう。

アイデンティティーマーケティングとは

SheerIDのホームページや同ウェビナーによると、アイデンティティーマーケティングとは、人々の帰属意識に注目するマーケティング戦略とのことです。アイデンティティーマーケティングでは、消費者群を示す「consumer tribes」という言葉が頻出します。Sai氏はウェビナーにて、消費者群を「学生」「高齢者」「軍人」「教師」「医療従事者」「ファーストレスポンダー(欧米の救急隊員のような職種)」「従業員」に分けています。アイデンティティーマーケティングではこのようにライフステージや職業などで消費者群を作り、そこに向けてプロモーションを行います。

SheerIDのブログ記事によると、アイデンティティーマーケティングの手法は以下の通りです。

1、消費者群を決める
2、消費者群のためだけの特別オファーを作る
3、特別オファーを宣伝する
4、口コミ効果を狙う
5、消費者群に再関与しエンゲージメントを高めながら関係性を続けていく

特別オファーとは、消費者群を限定して割引や無料サービスを提供することです。「学生割」「シニア割」は、日本でも一般的です。

ウェビナーでSai氏は、アイデンティティーマーケティングが機能する理由を3つあげています。それは「口コミ」「対象を絞ったオファー」「ブランドの信頼」です。このように見ると、コンテンツマーケティングも含めた従来からあるマーケティングで大切にされていることと重なる部分も多いといえます。

アイデンティティーマーケティングの肝は、口コミ効果を狙うことです。同社の調査によると、Z世代(1990年代半ばから2000年代初頭生まれの若者)の83%は、自分たちに向けられた特別オファーを友人と共有するといいます。また、教師の場合はこの割合が71%にもなります

ここで一つの疑問が浮かびます。消費者群を決めるとは、普段のマーケティングで行っている「ペルソナ設定」ではないかという疑問です。記事ではこの疑問について、「郵便番号や性別などの人口統計に基づくパーソナライズは購入意思の導火線としては弱く、口コミまでには至らない」「行動マーケティングを行うにしても、個人データを収集されることに対する拒否感が強くなっている」としたうえで、「価値観と経験を共有している消費者群にアプローチする」ことを大切にしなければならないと主張しています。

アイデンティティーマーケティングもペルソナ設定が重要なことでは一致していますが、「価値観」「経験」の部分をより重視していることが分かります。価値観と経験を追求した結果、ペルソナ設定においてライフステージや職業を重視していると言えるでしょう。価値観は感情につながりやすく、感情の部分にアプローチすることで企業への愛着を高めることができるのです。

アイデンティティーマーケティングは、単に消費者群を絞った割引(特別オファー)を行うだけではないようです。そこには、企業としての価値観を一貫して消費者に伝える必要があります。同社によると、軍人向けにアイデンティティーマーケティングを展開しているドイツの通信サービス会社「T-Mobile」は、割引サービスを提供するだけでなく、退役軍人のキャリアサポートや軍基地周辺のインフラに投資するなど、軍人に寄り添う姿勢を示しているようです。

アイデンティティーマーケティングにコンテンツマーケティングの要素を加えるならば、企業の価値観を伝えるためにコンテンツを活用できるのではないかと個人的に感じています。

多くの企業が用いているアイデンティティーマーケティング

アイデンティティーマーケティングはナイキやコストコ、リーバイスなど、多くの企業が活用しているようです。実際にどのようなオファーがあるのか、どのようなステップを踏むのかナイキの例を見てみましょう。

ナイキでは医療重視者向け、学生向け、軍人向けの特別オファーがあるようです。

ナイキの特別オファーページ(ナイキホームページより)

このページから先に進むと、医療従事者、学生、軍人のいずれかであることを示す確認書類とともに、SheerIDを通じて確認フォームを入力するよう案内するページへと遷移します。その後は、顧客情報を入力するフォームへと移ります。

個人情報を入力するフォーム

Sai氏はウェビナーにて、ブランドの信頼に関して同意の重要性についても言及していました。特別オファーを受けるための確認書類の提出、照合のための個人情報の入力という大義名分があることで、顧客は自分の個人情報を自然に、納得した上で提供できます。ここもアイデンティティーマーケティングの特徴と言えるでしょう。

アイデンティティーマーケティングの可能性とコンテンツへの影響

今回はアイデンティティーマーケティングについて考察してきました。海外では広がりつつある考え方ですが、今後日本でも広がりを見せるのでしょうか。現在、学割やシニア割は一般的になっています。調べてみると、教師対象の割引を行っている企業もあるようです。

コロナウイルスの影響下の中、医療従事者向けの割引サービスを展開する企業も増えています。「優遇するべき理由」を明確に見出せることができれば、日本でもアイデンティティーマーケティングは広がっていくでしょう。しかし、職業で割引の対象を決めるのは、多くの人が納得できる理由がない限り難しいのではないかと個人的に考えています。「なぜあの職業は優先されるのか」という批判にもつながりかねないためです。そういう意味では、ライフステージで消費者群を決めるほうが自然な形のようにも思えます。

アイデンティティーマーケティングを展開する場合、求められるコンテンツにも影響が出る可能性があります。ナイキの例でいえば、ナイキがスポーツ関連のオウンドメディアではなく、「若者向けに流行の情報を発信するオウンドメディア」「軍人向けの情報発信をするオウンドメディア」を運営し、オウンドメディアのコンテンツから特別オファーのページに遷移するという展開もあるかもしれません。コンテンツマーケティングにも影響がありそうなアイデンティティーマーケティング。その動向に今後も注目していきたいところです。